痛風・尿酸ニュース

江戸痛風事情

寺井 千尋(自治医科大学名誉教授)

御用学者ベルツは明治15年に刊行された彼の講義に基づく『内科病論』の中で「一二ノ地方殊ニ英吉利斯ニ於テハ屡々之ヲ見ル日本ニハ甚タ稀ナリ恐クハ是レ主トシテ植物食ヲ取リ且ツ麥酒及葡萄酒ヲ飲用スルコト少ナキカ故ナラン」と日本には痛風はないと述べている。

今では男性の20%、女性の5%に高尿酸血症が見られ、痛風患者は成人男性の1%以上になるが150年前にはほぼ皆無であった。痛風発症には遺伝要因と環境要因が関与する。遺伝要因では尿酸トランスポーターの変異による尿酸排泄能の低下が大きな要因であるが、遺伝子が10世代、20世代という短期間に大きく変化することはないので、痛風患者数の増加は環境要因の変化によるものである。高尿酸血症を招く環境要因としては肉類などプリン体摂取の増加、飲酒、激しい筋肉運動、果糖の摂取、ストレス、肥満などが知られる。

本当に明治以前の日本に痛風はなかったのだろうか。歴史上の資料、文書などを調べると病気に関する記述は多数ある。当時大きな災厄であった感染症(天然痘、麻疹、赤痢など)の流行はしっかり記録に残る。他の病気でも、例えば藤原道長始め藤原氏一族に飲水病(糖尿病)の症状が克明に記載され、道長は多飲、視力障害(白内障)、皮膚感染症(瘍の多発)などの症状を経て死亡している。平清盛は高熱が続いて死亡しておりマラリアだったと考えられている。痛風発作や痛風結節のような特徴的な症状があれば記録に残らないはずはないが、痛風らしい病気の記載は見当たらない。一方、西欧ではギリシャ時代から痛風に関する詳細な記録が多数あり、近世では痛風患者を描いたカリカチュアが多く残るのはご存知の通りである。

では明治以前の日本で痛風がごく稀であったとして、どの環境要因が関わっていたのだろう。そこに現在の痛風予防のヒントがあるかも知れない。

ベルツは日本人が植物食をとりビールやブドウ酒を飲まないことを理由と考えた。確かに仏教の影響で長らく四つ足は避けられ、たまにぼたん(猪)やもみじ(鹿)を食べることがあっても動物性蛋白は主に魚介から摂られていた。魚介にもプリン体は多く含まれるが、魚介摂取は江戸前の魚が市場に流通した江戸や漁村でのことであり、それさえも江戸庶民の栄養源としては決して多くを占めない。俸禄を米でもらった武士が問屋・札差で換金するので、江戸では白米が広く流通して食生活の基本となり総エネルギー摂取の大部分を占め、野菜、大豆製品、発酵食品が栄養を補完していた。

一方、アルコールはどうであろうか。江戸は参勤交代で単身赴任の武士が多数いて外食産業がさかんで、酒の消費も多かった。18世紀には関西の伊丹、灘の清酒が下り酒として大量に出回るようになった。どれくらい飲んだかというと、江戸の人口が100万人の時、年間の酒の消費が100万樽で、赤ん坊から年寄りまでいれて一人平均年間1樽、つまり一升びん換算で40本も飲んでいたとの記録がある。ビール程多くはないが日本酒のプリン体量はワインと変わらない。江戸時代の人々はかなりの量のアルコールを飲んでいたが、痛風には至らなかったようである。

他の要因のうち果糖摂取は除外できるが、運動や肥満、メタボはどうだろう。ある試算では江戸時代の農民成人男性のエネルギー摂取量は農繁期には4000-5000Kcal、農閑期でも3000Kcalと推定されている。農業以外の労働であっても江戸庶民(男性)の所要エネルギーも同程度(3000Kcal)とされる。農作業は過酷な重労働であったが、職人や大工、火消しや飛脚といった職業も同様である。移動は基本的に徒歩で1日に30~40kmを歩くことも珍しくない。江戸時代の生活を理解する上で重要な点は、その圧倒的な身体活動量であり、そのエネルギー源として庶民でも1日3-5合の白米を必要としたのである。これは生き延びるためのエネルギー量であり、当然一般庶民で肥満はまれであった。当時の富裕層や上級武士の中には肥満者もいたと思われるが、人口構成からすればごくわずかであろう。

このような日常生活における高い身体活動は基礎代謝量を増大させ、肥満・メタボを防止する。現代人が意図して行わなければならない運動が、江戸時代の人々には日常であり、絶えず持続的な有酸素運動を行なっているようなものである。江戸から現代への教訓は、身体活動量を高く維持すれば、肥満やメタボが解消し痛風を予防できるということだと思う。

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