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第105号 科学者は歴史を知ろう(3)

クーンの唱える科学史は、物理学だけではなく生物学にも通用するものでしょうか。それが今回のテーマです。

まず科学革命の候補として挙げられるのはダーウィンによる進化論です。当時、科学者の考え方に大きな変化をもたらしたことは間違いありません。しかも、社会に及ぼした影響はガリレオの地動説に似ています。ガリレオの説は当時の宗教界の考えと真っ向から対立するものであり、激しい攻撃を受け、ガリレオは事実上、地動説の主張を控えるしかありませんでした。宗教裁判で断罪されたガリレオは「それでも地球は廻っている」という独り言をつぶやいたと言われます。

これに比較してダーウィンの場合は、宗教界や科学界からの反発は強かったものの、ガリレオのように迫害を受けるほどの社会的制裁は受けていないようです。しかし、現在でもダーウィンの進化論を認めない宗教界の人々はかなりの数にのぼると言われます。米国のある州では、ダーウィンの進化論を教科書に掲載することを禁止する動きがあったと聞いています。

このように当時の既存勢力による激しい反発と攻撃は、科学革命で有ることの一つの大きな判断材料であると思われます。既存のパラダイムを書き換える行為が科学革命なので、当然のことでしょう。しかし、最近はガリレオのように宗教界がすべての分野に大きな力を持っていた時代とは違います。むしろ、その時点での科学界の大御所達による反発と攻撃が判断材料になるでしょう。例えば、アインスタインの相対性理論が発表された時の当時の物理学者の反発、ハイゼンベルクの不確定性理論が発表された時のアインスタインとシュレディンガーの激しい攻撃がそれに当たるでしょう。

メンデルの法則の場合は多少状況を異にしています。メンデルの法則が発表されたのは 1865年ですが、それが正当な評価を受けたのは 1900年です。その間に多少の反発はあったようですが、むしろ無視されたという評価が正しいでしょう。このように、当時の誰にもその重要性が評価できなかったための無視、あるいは多少は評価しても、それを認めたくないための無視も科学革命であることの証拠となりうるでしょう。メンデルもガリレオと同じように、生前「今に見ていてご覧、きっと私の時代が来るから」と言っていたといいます。メンデルの法則の再発見以後、メンデルの法則を認める学派(メンデル学派)と認めない学派(生物計測学派)の間で大論争が始まります。そして、メンデルの法則の再発見を機に、それまで遅々として進まなかった生物学が猛烈な勢いで進歩を始めました。これも科学革命であることの証拠になると思います。

次の候補はワトソン、クリックによる DNA二重螺旋構造の発見でしょう。この発見は分子構造そのものが最も重要なのではなく、この構造がメンデルの法則と進化を見事に分子の面から説明する事が画期的なのです。ワトソン、クリックの成果は特に当時の大御所による反発は大きくなかったと思います。しかし、渡辺格氏はこの論文のコピーを見た途端に仰天し、多くの研究者に紹介したが、殆どの研究者は無反応であったといいます。ワトソン、クリックの発見の少し前から、ポーリングなどによる生体高分子を重視する研究が始まっていました。このころから、一気に「分子」が生物学の中心へと躍り出てきます。

それでは、ダーウィン、メンデルとワトソン、クリックによる発見が科学革命であるとして、変わったパラダイムとは何でしょう。私は、ダーウィン、メンデルからワトソン、クリックに至る間を「形の時代」、ワトソン、クリックから現在に至る間を「分子の時代」と考えています。

ダーウィンもメンデルも「形」を元に研究を進めています。例えば、鳥の嘴、豆の形などです。これらは肉眼で見える形ですが、その後、顕微鏡で見える形が加わります。この時代の研究者達は目で見た形を図に描いて研究者間で内容の伝達や共有を行っていたのです。進化論の場合は系統樹、メンデルの法則の場合は家系図が重要な役割を果たしました。これらが、当時のパラダイムを構成する重要な要素でした。

分子は目には見えません。確かに形を描くことはできますが、本当にこのような形で「存在」しているのか、と問われると苦しいところです。その存在を証明するには、素粒子論を理解する必要があります。しかし、ほとんどの分子生物学者はそんなものは理解しなくても優れた業績をあげています。これはひとえに、分子図、アミノ酸配列、ヌクレオチド配列などのチャートやグラフで構成される概念を共有しているからです。最近では、分子の3次元構造図なども大きな役割を果たしています。多くの研究者は分子の3次元構造図がどのような原理で描かれているかの詳細を理解しているわけではありません。しかし、コンピュータプログラムを使って描かれた3次元図を共有して、それぞれの研究の正統性を評価しています。まさに、トーマス・クーンの言うように、分子生物学パラダイムを構成するさまざまな図、グラフ、チャートなどを共有し、それに合致する研究を次々に積み重ねているわけです。

分子生物学パラダイムは極めて強固なものです。これを構成する技術や手法は極めて洗練されたものになっています。今後も、これらの技術や手法を様々な研究対象に適用すれば人類に膨大な利益をもたらすと考えられます。分子生物学パラダイムはこれからも長い間続きそうです。

しかし、分子生物学の将来には問題もあります。ヒトが研究対象の場合、すべての蛋白質の情報を担う全ゲノム配列は完全に解明されました。蛋白質の数は有限であり、およそ2万個ほどであることが分かりました。これからも新たな遺伝子や蛋白質の発見は可能ではありますが、次第に困難となっていくでしょう。遺伝子や蛋白質の数は有限でも、合成する化合物の数は無限のようにも思われます。しかし、ここにも問題は生じています。DNAも蛋白質もコンピュータと機械で自動的に合成できるようになってきたからです。更に、低分子の合成も自動化されつつあります。Combinatorial chemistryの進歩により、コンピュータとロボットが膨大な数の分子を自動的に合成し始めたからです。

もちろん分子生物学の重要性はこれからも続きますが、そろそろ後始末的な仕事が増えてきているのではないかという気もしないではありません。ニュートン力学と熱力学の研究が頂点に達した1900年ころ、物理学の大御所、ケルビン卿が「これからは画期的な物理学的発見は起こらないであろう」と言った状態に近づきつつある可能性があります。実はその数年後に特許庁の職員、アインスタインの一論文により、世界の物理学界は疾風怒濤の時代を迎えることになるのですが。当時のパラダイムに満足しきっていたケルビン卿には、それから起きる何事も予測することはできなかったのです。

生物学においてもこれからパラダイムシフトがおきるのでしょうか。「形の時代」「分子の時代」はそれぞれ約50年続きました。もし科学革命が起きるとすると、新しいパラダイムはどのようなものでしょうか。次回はそれについて考察します。

 

(続く)

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