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第69号 エラーを許さないという病理

まず、科学的真実は100%の正しさで決まるかどうかという問題について議論したいと思います。正しいかどうか真偽のわからない記述、それに対し真偽を決めるべき記述を「命題」といいます。命題が正しいということになると「定理」という事になります。どのような根拠で命題が正しいと決められるのでしょうか。それは、命題とは別に正しいことがわかっている定理Aがあって、それが正しければこの命題は正しいということが言えるのです。しかし、前提になる定理Aはほんとうに正しいのでしょうか。それもまた、何らかの定理Bから正しいということを証明しなければなりません。誰かが正しいというから正しい、という論理を承認しない事が科学の特徴です。

そこで、これだけは正しいということを認める定理の集合を形成し、それを公理系と名づけます。公理系は複数の公理により成り立っています。間違いなく正しいものの集合を集め、それによってすべての命題の真偽を決めていくのです。足りないものがあれば公理を増やしていきます。しかし、あまり増やすと公理系の中で内部矛盾を起こす可能性があります。矛盾が起きないように公理系は改良を重ねる必要があります。しかし、そうしていけば完全な公理系ができるのでしょうか。

できません。それはゲーデルによる不完全性定理を知ればわかります。述語論理系の場合、公理系の内部で矛盾がなければ(無矛盾性)、すべての命題の真偽を決める(完全性)ことはできないことが証明されているのです。しかも、無矛盾であったとしても、それが無矛盾であることを証明することも不可能であることが証明されています。

それでも絶対的に「正しい」という事はあると主張する人もいるでしょう。皆が正しいと認める事は正しいといってもいいのではないでしょうか。少なくとも叡智を集めた科学界の多くが認める正しさは正しいと言えるのでは無いでしょか。

私は日本ではこう考える人が圧倒的に多いと思うのです。それではガリレオ(コペルニクス)が出現する前の天文学はどうだったでしょう、アインスタインの出現する前の物理学はどうだったでしょう。ハイゼンベルグの出現する前の量子力学はどうだったでしょう。メンデルの出現する前の遺伝学はどうだったでしょう。それとも過去の科学界だけが全て間違いで、現在の科学界はすべて正しいと言えるでしょうか。冷静に客観的に考えると、そんなことはありえないことがわかります。つまり、現在の科学も未来の科学界では否定される運命に違いないのです。少なくとも大きな欠陥があることが明らかになるでしょう。歴史が止まる事が無いように、科学も止まることはありません。

科学の歴史を客観的に見れば、科学とは真実に近づいていく過程であるという楽観的見方が誤りであることがわかります。その時点での科学者の集団が正しいと認める考え方が存在し(パラダイム)、それに沿って多くの科学者はその時点での科学者集団が推奨する仕事をします。そこに革命科学者が現れ、根底から覆す科学を提示し、最初、科学者集団はそれに大反対するものの、次第に多くの科学者が革命科学にそった論文を発表するようになる。そのうち、革命科学が通常科学となって次のパラダイムを構成するようになります。

現時点で完全に正しいと考えられることさえ、その正しさは歴史の中では自明ではありません。特に日本社会では真実を自明と考える傾向が強いのではないでしょうか。そして、エラーに対しあまりにも非寛容ではないでしょうか。社会があまりにエラーに対し非寛容なため、元来誠実で真面目な日本社会に隠蔽や改ざん、捏造が多いと思うのです。

エラーを許さない傾向は科学界にあるだけではありません。医療の中にも現れています。エラーに対しあまりにも非寛容のため、それを完全に排除しようとし、かえって隠蔽や改ざんを多くしているのではないでしょうか。人間が行うことにエラーはつきものです(Err is human)。生物である人間は、モノと違って多様で不確実だからです。均一で確実な「モノ」と同じような正確性を人間に求めるのは無理というものです。

エラーを認めて初めて、それを減らすための手段を考えることが可能になります。ももともエラーを認めないのであれば、それに影響を与える要因を認識して、何とかエラーを減らす手段を解析することがおろそかになります。エラーを認め、それを認識すれば、その確率を減らすことができ、たとえエラーがあっても出来る限り被害を少なくするための手法(fail safe)を考えることができます。

「エラーを許さない」という態度は、日本社会の大きな病理の一つだと思います。

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