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第20号 日本人が不得意な不確実性と多様性

世界のピアノコンクール、バイオリンコンクールで好成績をあげる日本人のニュースを良く聞く。人口当たりで考えても、むしろヨーロッパ人よりも日本人の音楽奏者の成績は良いのではないか。日本人は江戸時代までは西洋音楽にほとんど接していない。にもかかわらず、世界レベルの西洋音楽奏者になれるのは、考えてみれば不思議である。

日本人以外で西洋音楽奏者として名を馳せているのはユダヤ人である。ユダヤ人の友人に聞いたところ、彼らの社会でも西洋音楽は新しいのだと言う。日本人と同じように、西洋音楽とは全く異なった民族独自の音楽があったようだ。だからこそ、新しく触れた西洋音楽は新鮮に聴こえ、特別の熱意を持って上達に励んだ結果ではないかと言う。日本にも雅楽など、民族独自の音楽が存在した。明治になって普及した西洋音楽は日本人には驚きであったであろう。

最初にこのことを強調したかったのは、日本人には異質な文化や技術を柔軟に受け止め、自分の物とするどころか、その文化や技術を最初に開発した社会より、更にうまく発展させる力がある事を言いたいからである。現在、日本社会にはなじみが薄い概念や技術も、柔軟に取り入れる力がある。現在、日本人になじみが無いからと言って、それが日本人のDNAに無いと考えるのは早計である。

しかし、異文化や概念を海外から取り入れる場合、大きな抵抗が国内から起きる事も多いようである。先日、桜田門外の変のビデオを見た。開国を進める井伊直弼を水戸藩士が桜田門外で切り捨てた事件である。国内の伝統を重視し、外から異文化を取り入れることを排除する攘夷の思想が日本にはある。しかし、一旦、取り入れる事が決まると、その方向に一斉に流れるのも日本社会の特長である。そうでなければ、明治維新後の大発展は不可能であったであろう。

ここからが本題であるが、私は日本にはまだ十分導入されていない重要な概念があると考えている。それは「不確実性と多様性」を受け入れ、それに対処するという概念である。不確実性と多様性の反対は「確実性と均一性」である。この後者の概念が日本社会に深く根付いている。おそらく、日本人のDNAに刷り込まれていると主張する人々も居るであろう。しかし、後述のように、それはDNAに刷り込まれているわけではなく、せいぜいRNAか蛋白質のレベルであるというのが私の考えである。

日本語の名詞には単数と複数の区別が無い。複数に成れる名詞と成れない名詞の区別も無い。前者は可算名詞、後者は不可算名詞である。水と犬の違いは我々でもわかるが、英語を母国語とする人々はそれとは異なる意味でwaterとdogの違いを解釈しているのであろう。犬が1匹でも2匹以上でも、我々には大した違いは無いが、彼らにとっては、それなしには会話もできぬほど大きな違いなのであろう。この違いが実感としてわかるかわからないかは大きな違いである。

日本人には集合論の理解が難しそうである。集合論は数学の根本を支える理論であり、確か日本でもかつて中学の数学の教科書に取りいれられた。しかし定着せずに廃止されたと記憶している。日本の中学で集合論を教える事は難しかったのかもしれない。日本語には英語にあるような集合名詞は存在しない。

日本人には別々の同じようなものが集まって一つの概念を構成すると言う、集合の概念が理解しにくいようである。集合の中の個々の物は均一と考え、区別する必要が無いと考える傾向がある。だからdogもdogsもそれほどの違いは無い。均一では無い場合は、それ以上の深い理解はあきらめる。あるいは可能な限り均一として取り扱う。集合の中の多様性を取り扱う科学分野は「統計学」である。日本は、先進国の中でこの統計学の普及が極端に遅れている国である。日米の統計学会の大きさの違い、統計学部や統計学科の数の違い、統計学者の数の違いを知れば歴然である。人間はそれぞれ違う。人間が違うから、それぞれ異なった対応を取らなければならない。日本でも確かに個人個人で異なった対応を取る事は良くある。しかし、それは統計学のような論理や科学に基づいたものではなく、往々にして直感に基づいた対応である。

日本語では統計学の解説書は極めて書きにくい。これは私が実際に書いた経験に基づくものである。そして、欧米から輸入した確率論や統計学の用語に、問題のある訳語が多い。それをすぐに修正しようと言う運動が起きないのも不思議である。

人間が多様な理由は、個人ができた過程が不確実な過程だからである。つまり、遺伝の法則が不確実な過程なのである。不確実な過程を繰り返すと多様な物ができる。確実な過程を繰り返すと均一な物ができるのである。これが、「もの」と「生きもの」の大きな違いである。モノ作りでは、確実な過程が必要である。確実な過程を繰り返すと均一な物ができる。工場に行って、多数の部品が作られる過程を見れば、それが確実な過程である事を理解できる。確実性と均一性がモノ作りの真髄である。しかし、人間を対象とするとこういうわけにはいかない。生きものは不確実な過程で作られているからである。不確実な過程を繰り返すと多様な物ができる。不確実性と多様性は生物の本質なのである。

このような理由から、医療行為の結果は多様である。同じ行為を行っても個人が異なるので結果は異なる事がある。即ち、医療行為はしばしば不確実な過程である。例えば、同じ薬を同じ量服用しても効果や副作用が異なる事がある。薬の効果と副作用の不確実性は、すべての医師の大きな悩みである。もちろん患者に取ってはそれより遥かに大きな問題である。ほとんどすべての患者に効果がある薬がないわけではない。しかし、例えば癌の薬の多くは効果も副作用も個人差が大きい。

このような薬の副作用や効果の不確実性は最近、大きな問題になっている。その大きな原因は情報の公開である。以前は詳しく患者に薬の説明をしなかった。癌等の病名は正しく告知しない事も多かった。そのため、副作用が起きても、曖昧なままであった。しかし、情報公開によりそれが不可能になった。情報公開がなければ隠す事や、うそをつくことが可能であったものが、それが不可能になった。しかし、情報公開は医師-患者間の関係に大きな問題を引き起こしている。不確実性への対応が医師も患者も不十分なのである。

「先生、この薬は私の病気に効きますか」、という質問に対しては「効くか効かないかわかりません」、「先生、この薬を服用しても副作用は出ませんか」、という質問に対しては「出るか出ないかわかりません」という答えが正しい。「効きます、副作用は出ません」と言いたいところであるが、それは正しい答えでは無い。しかし、もちろん「効くか効かないかわからない、副作用が出るか出ないかわからない」という答えは患者にとって大きな意味があるとは言えない。患者に有用な答えとするためには「確率」の概念が必要である。「副作用の出る可能性は非常に低い」とか「かなりの確率で副作用がでるが、重症の副作用は極めて稀」という答えが最も適当であろう。しかし、患者さんはそれでは満足しない。確かに、副作用の起きる確率は10%だと言っても、起こってしまえば100%である。「先生には確率でも私には確実に起きるか起きないかだ」、という患者さんの主張は完全に理解できる。

私は、このような確実性と均一性への執着が、実は日本のモノ作り産業の成功の背景にあると考えている。皆で一糸乱れず同じ行動をし、全く同じ規格の物を大量に生産する。しかし、残念ながらこのような能力の最高の保有者は機械とコンピュータである。

不確実性と多様性の概念が重要な分野は医療だけでは無い。例えば人間を対象とした情報産業にも極めて重要である。ホームページの情報検索に極めて有用なツールを提供するGoogle社の手法にも不確実性と多様性への対処が取り入れられている。

人間の興味や好みは多様である。だから見たいホームページは個人ごとに異なる。確実性と均一性の視点に立てば、誰か権威者にホームページのランキングをしてもらい、それをすべての人々に提供する事を考えるであろう。しかし、Googleの創始者のブリンとページは考えた。人々は自分の好みで次々にリンクを使ってホームページをたどっていくだろう。結局どこに行きつくだろう。行きつく先は不確実である。それならば、統計学を用いて、行きつく先の確率によりランキングを行って、それを人々に提供すれば良い。Googleの持つPageRankアルゴリズム特許の内容である。

このように医療や情報産業など、人間を対象とするサービス産業には不確実性と多様性の概念が不可欠である。従って、この分野への日本人、日本企業の貢献は十分とは言えない。日本人のDNAにはモノ作りの能力が書き込まれており、医療や情報産業などは日本では発展しないと主張する人々も居る。確実性と均一性への執着は変える事ができないという主張であろう。しかし、最初に述べた通り、日本人は大きな文化の変化にも柔軟に対応してきた。いつのまにか、その文化を創った人々より優れた能力を発揮する事も多い。執着が書き込まれているのはRNAか蛋白質のレベルであり、根本的に変わらないものではない。日本人のDNAには、もともとどのような能力も書き込まれている。ただ、発現が今の所少ないだけだ。

日本にサービス産業を本格的に発展させるためには、確実性と均一性への執着から脱却し、不確実性と多様性を認める必要がある。日本社会がそれに対処する覚悟を持ち、技術を発展させる事が重要であると思う。

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