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2014年03月31日

第61号 新しい産業に対応するための教育(3)情報の確実性の判定

情報の正しさを判定する方法

情報の公開が原則の社会では、以前の「正しい情報を独占していること」から、「情報の正しさを判定する方法」と「解明により得られる情報」に重点が移ったことを前回述べました。「正しい情報の独占」は正当な理由がないと犯罪に結びついたり、不公正とみなされたりする恐れがあります。最近重要になった後者の2つの点の中で、今回は「情報の正しさを判定する方法」について解説します。最近は様々な情報に満ちあふれているので、この問題はほぼすべての人々に関係しているでしょう。

情報も過去の出来事についてのものと、未来の出来事についてのものに分類されます。過去の出来事は既に起きたことなので、データは確定しています。しかし、現時点で情報が正しいかどうかを100%判定できるわけではありません。例えば、犯罪の裁判を考えると良いと思います。ある人物が犯人かどうか、既に犯人か否かは確定しているのですが裁判官や陪審員にはそれが100%わかるわけではありません。しかし、100%確定しなくても判決は下す必要があります。100%確実ではない場合、どのような判決を下すべきか、大きな問題です。少しでも無罪の可能性があれば無罪とするというのが原則だと思いますが、果たして情報あふれる現在にいつまでその原則が通じるでしょうか。最近、過去の有罪が覆される例が増えているように見えます。これもDNA鑑定など、以前には得られなかった情報の出現が寄与する場合も多いようです。これまでは情報が少なく、情報の伝達手段も極端に少ない中で過去の犯罪を裁く必要がありました。検察、裁判官、弁護士の方々も苦しい思いの中で何とか正しい判決のために努力されたと思います。データも増え、正しい情報を判断する客観的方法も発達してきたので是非、そのような分析法を裁判に取り入れてほしいと思います。最近では過去に起きたことでも、その原因が何であったかを推定するベイズ統計という方法が普及してきています。これまでは直感や情緒が判決に入りこむことも排除できなかったのではないでしょうか。裁判の過程に客観的なデータ分析の手法を持ち込めば、裁判官、検事、弁護士が誰であるかにより裁判結果が左右されるという不公平もできるだけ排除できるのではないでしょうか。

しかし、DNA鑑定も100%の確実性はありません。確率が極めて高いだけです。本人識別でさえ、体細胞で僅かな変化は起きます。親子鑑定の結果が100%正しいことはありえません。しかし、遺伝の特徴は、その確率が恐ろしいほど正確だということです。ここでもまた、情報の正しさは確率という概念によってしか確認できないことがわかります。

過去と違って未来の出来事は未だ起きていないので、情報の内容は「予測」ということになります。「これはこうなる」というのが予測です。このような予測は非常に大きな意義を持ちます。さらに踏み込んだ予測は「こうすればこうなる」というものです。未来の出来事を予測する場合も、100%の予測は難しい場合が多いと言えます。「こうすればこうなる」と主張する場合、実はそうならずに別の結果になることもあるはずです。結果がひとつしかなければ、そのような予測は無意味だからです。同じことをやっても結果が複数あるからこそ、そのうちどれが起きるかを予測することに意味があるのです。

このように過去の出来事でも、未来の出来事でも100%の確率で確認や予測ができない場合が多いものです。このような場合、重要な作業は「確率を推定する」という作業になります。例えば、太陽が明日東から昇る出来事も100%とは言えません。しかし、その確率は100%に極めて近いものであり、心配はいりません。東京で大地震が起きない確率はもう少し低いでしょうから、心配をする必要があります。薬の副作用が起きない確率はもっと低いので、自分にとっての心配は更に大きいと言えます。放射線による自分に与える影響についても、癌になる確率などを推定することから考える必要があるでしょう。

こうすればこうなると確定的には言えなくても、こうすればこうなる確率が何%であるという情報がわかれば大変参考になります。現実問題として、未来がこうなると確定できることは極めて少ないものです。従って未来予測では、殆どの場合、確率的予測になるはずです。過去に起きたことであれ、未来に起きることであれ、正しさの指標となる「確率」という概念をどう捉えればよいでしょうか。

冷静に考えれば、一つのことを行っても結果が一つでなければ、起こりうるすべてのことを考慮する必要があるでしょう。そして、それぞれの起きる確率を推定することが冷静な態度と言えます。しかし、このような確率を客観的に計算し、しかもそれを納得することは容易ではありません。しかも、この過程は日本人には少し不得手かもしれないのです。

例えば未来に何かを行うことを一つの試行といいます。その一つの試行の一つの結果を「一つの結果」といいます。結果が二つ以上ある場合もあります。すべての可能性のある結果を考えてそれを納得の行く形で列挙します。これを標本空間と言います。そこで、どの結果が起きやすいかという事を客観的に考えなければなりません。皆さんは、確率という意味は結果の確率だと思うでしょう。しかし、確率は結果に対応するものではありません。確率は結果の集合に対応するのです。結果の集合のことを出来事(日本語では事象といいますが、私は出来事の方が良いと思います)といいます。この出来事こそ確率の対象です。

しかし、実際に起きるのは結果であり、出来事ではないので、我々は出来事から得られた情報を結果に適用する手段を持たなければなりません。予測の場合、これから行う施行の結果が対象になるので、それは仮想的な「任意の」結果ということになります。このあたりが日本語では難しい部分です。複数と単数の違いがなく、定冠詞と不定冠詞の違いがないからです。しかも確率の場合、モノの集合のような単純な対象を扱うのではなく、ひとつの施行の結果の集合をあつかうわけです。そして、確率を考える段階では集合であり、予測を行う場合は任意の要素ですが、実際に結果が起きると、特定の結果になります。複数から不定冠詞を持つ単数になり、最後は定冠詞を持つ単数になります。

もうひとつ難しい点は、一つの結果は一つであり、もちろん有限ですが、ひとつの施行が無限の数の結果をもたらしうることがあります。無限の結果でも数えられる場合と数えられない場合があります。これらは英語を話していると直感的にわかります。例えば水は数えられず、りんごは数えられるとわかります。英語を話すと対象物が数えられるか数えられないかを常に考える習慣ができます。数えられない場合は測る必要があります。この測る行為がなかなか難しいのです。

一般的に測るものは時間と空間に関係しています。長さもそうだし、時間もそうです。重さも加速度との関係を考えると、時間と空間に直接は関係していなくても同様のものだと思います。これらの測る対象物は直感的によく理解できます。それは時間と空間が並んでいるからです。

確率も「測る」ものです。しかし、確率を測ることは時間と空間と違った難しさがあります。並んでいないものの集合を考える必要があるからです。対象が連続していれば測ることには納得がいくでしょう。ここからここまでの10 mは私の所有する敷地だ、といえるのは、敷地の中の点が並んでいるからです。何時から何時までの3時間は、このレストランは貸し切りだ、といえるのは時刻が並んでいるからです。しかし、一つの施行の結果は並んでいません。これが確率の概念を捉えることを極めて困難にしています。

並んでいない対象物の大きさを測るときはどうするか。集合を作るしかありません。例えば、たくさんのりんごの中で赤いリンゴの割合を知りたければ、赤いリンゴの集合を作ればよいのです。木になった状態であれば、赤いリンゴだけ集めることは難しいので、頭のなかで赤いリンゴの集合を作る必要があります。例えば、クスリの副作用を調べる場合、副作用の出た人の集合を定義する必要があります。その時、副作用が出た人だけ集まってくれというのは甚だ失礼な話です。頭のなかで集めれば良いわけです。そして、副作用が出た人の集合の中の性質を徹底的に調べ、それがどのような性質と関係しているかを調べます。そして、次に薬を使う人に副作用が出ない手段を考えます。しかし、問題は次に薬を使う人は、前の副作用の人々の集合には含まれないということです。

人々はすべて異なるので(多様性)、一人の人から得られた知識が他の人に適用できないのはもちろんのこと、多数の人から得られた知識さえ、別の次の人にはそのまま適用できるとは限りません。そこで、「任意の」という概念が必要になります。次の人も含む全体の集合があり、次の人はその集合からの「任意の」一人だと考えるわけです。そして、前に調べた副作用の人々は、全体の集合からの「任意の」多数だと考えます。任意の多数から得られた情報を、別の任意の一人に適用します。こういう考え方の中に、英語の単数複数、定冠詞不定冠詞の概念が関係していることがお分かりでしょうか。

以上のように多様性を認めると、100%の予測は難しい場合が多いということがわかります。そうすると、前にも述べた通り、情報の正しさは「確率を推定する」という作業と無関係ではありえないことがわかります。100%で無いことを100%とみなすことは不安を取り去るために有効かもしれません。しかし、それによって失われるものの方がはるかに大きいように見えます。不完全性を認めることにより、確率をできるだけ高くするという永遠の努力が可能になります。100%とみなすことによりその努力が停止してしまいます。

残念ながら、日本社会では以上のような考えがなかなか理解されません。それが100%を好む社会を形成していると考えられます。例えば裁判においては100%を求める社会的要請があります。しかし、それはDNAを含む情報の加速度的増加を背景に破綻するおそれがあるように見えます。完全性を前提とした権威に頼るより、不完全性を認める体制にする必要が益々大きくなっていると思います。

産業については製造業では100%原則が有効に機能しました。それはモノが対象の場合、確実性と均一性が保証されるからです。しかし、人間や動植物を対象とする産業では100%原則は無力です。完全では無いことを前提に、出来る限り確率を正確に推定し良い方向に変える努力をすべきだと思います。

日本社会は極めて確率の低いリスクについても、確率の高いリスクと同様に恐れる傾向がないでしょうか。これが、あるか無いかで考えることを好む傾向に関係していないでしょうか。また、自分で考えるより、他人や社会の雰囲気に判断を委ねる傾向も無関係ではないでしょう。

私は、日本社会の以上の傾向は、教育によって変わると考えています。それについては、次回以降のテーマとなります。次回のテーマは「解明により得られる情報」です。


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