医学の地平線
第149号 21世紀に科学のフロンティアは「モノ」、「情報」から「エネルギー/エントロピー」に移る
AIが不得意な分野の能力により人間が評価される
AIの急激な進歩には目をみはるばかりです。しかし、AIが進歩し、普及すると人間の知的能力が発揮できにくくなります。そして、現状を見ればわかるように、大規模なシステムを構築する資金力だけが勝敗を決める事にもなりかねません。しかし、そのような世界では、AIが不得意で人間にしかできない能力が重要になると考えています。AIにやれることはAIに任せ、我々人間はAIが不得意とする分野に焦点を当てるべきです。そして、AIが不得意な分野の能力によって人間が評価される時代になると考えられます。
もちろん身体的能力や、情緒的能力については人間が優位性を持つと思います。しかし、ここでは知的能力に焦点を当てたいと思います。人工「知能」に勝る人間の「知能」について考えます。そのような知能が果たして人間に存在しうるのか、という問題について実例を挙げて考えてみたいと思います。
AIブームはいつまで続くか?
歴史を見渡すと、いつの時代も現在が最高(良いという意味ではなく、能力的に)の時代で、この方向の延長が続くと思うものです。AIについても、これが人間社会の最高の到達点で、これが人類最後の発明だという意見も出るほどです。現在の視野で思考すると、そのような考えに至ることは無理がありません。
私はAIの原理を十分理解した上で、「AIの進歩は近々、大きな壁に突き当たる」と予測しています。その理由は、「エネルギーの限界」という壁を超えることは容易ではないと予想されるからです。知的システムである人間の脳は、エネルギーの効率の点ではAIを凌駕しています。更に遺伝子のシステムは、エネルギー効率の点で脳のシステムを凌駕しています。
情報システムの構造
AIは「情報システム」の究極の形です。しかし、AIシステムを作ったのは人間の脳のシステムです。そして、脳システムは、遺伝子システムが作ったものです。このように情報システムは40億年前にできた遺伝子システム(親)、7億年前にできた脳システム(子)、そして数十年前にできたAIシステム(孫)の情報3世代により構成されています。コンピュータはAIシステムの初期の形態であったと解釈されます。これらの3つのシステムは、入力→情報処理→出力、という共通の構造を持ち、目的を達成する確率を最大化するという共通の原理に基づいています。
世界を構成するモノ、情報、エネルギー
しかし、世界は「情報」だけで構成されているものではありません。「モノ」と「エネルギー」があります。世界(宇宙)を構成する3要素の中で、モノとエネルギーは138億年前に出現したものですが、情報は遺伝子システムが出来た40億年前の出現です。つまり、世界の基本要素「モノ」「エネルギー」「情報」の中で、「情報」は生命の誕生とともに遅れて出現しました。
20世紀に科学のフロンティアは「モノ」から「情報」に移った
人間の文明は科学・技術に支えられています。初期の科学は主として「モノ」を対象としました。モノこそが、我々人間が認識できる最も基本的な対象だからです。初期の科学の中にもエネルギーや情報の要素は存在しましたが、本格的な導入は19世紀からです。
19世紀になり物質界においてはボルツマンが、生命界においてはメンデルが情報の基本となる「確率」の概念を現実世界に導入します。ボルツマンはエントロピーを表すボルツマンの公式、基本粒子の存在確率を表すボルツマン分布の発見により、微視的な物質の基本に確率が存在する事を示します。メンデルは生命の本質である遺伝が、確率により支配されていることを発見します。ボルツマン理論も、メンデル理論も19世紀に認められることはありませんでした。しかし、1900年に同時にボルツマン理論とメンデルの法則が「再発見」されています。この時、ボルツマンもメンデルもこの世の人ではありませんでした。
ボルツマン理論とメンデル理論が科学の中心を占めるようになった20世紀には、シャノンが「情報」の基本的概念を明らかにします。彼は、メンデルの理論に基づいた遺伝法則と、ボルツマンの理論に基づいた通信理論に関する2つの学位論文を発表しました。そしてメンデルの法則から情報の単位としてのビット(二値)を定義し、ボルツマン理論から情報の大きさを測るエントロピーを定義します。通信は情報の伝達ですが、情報伝達の最も基本的な形は親子間の情報伝達です。メンデルの法則における配偶子の世代間伝達が0、1の二値(ビット)であることを見出し、これが基本的なデジタル情報伝達であることを発見したのです。またエントロピーを示すボルツマンの公式を一般化したギブスによるエントロピーの公式から、情報のサイズを示すエントロピーの式が導かれます。その後、シャノンの情報理論を基礎に、コンピュータ、統計学の進歩をもとに現在のAIブームが到来するようになりました。統計学は遺伝学を基礎にして発達した科学分野です。
21世紀の科学のフロンティアは「情報」から「エネルギー」に移る
前述のとおり、20世紀に科学のフロンティアは「モノ」から「情報」に移ったと考えています。その究極の到達点がAIです。そして、21世紀、科学のフロンティアは「情報」から「エネルギー」に移りつつあると考えています。そして、それら3要素を統合する「エントロピー」が重要になります。
AIの原理の基本は「エネルギー最小化」「エントロピー最小化」です。初期のAIモデルであるホップフィールドネットワーク、ボルツマンマシンの原理はエネルギー最小化であり、深層学習の多くはエントロピー最小化が原理です。教師あり学習の多くや拡散モデルでは、クロスエントロピー最小化であり、教師なし学習の多くはエントロピー最小化を行っています。強化学習では両方のエントロピー最小化を行っています。エントロピー、あるいはクロスエントロピーは尤度の対数と比例する形で記載されます。そして尤度と確率には密接な関係があります。確率がパラメータを固定した出来事の関数として表されるのに比較して、尤度は出来事を固定したパラメータの関数として表されます。固定する対象と、動かす対象が異なるだけで確率と尤度は同じ関数の形をしています。AIが膨大なパラメータを調整して特定の目的を達成する確率を最大化するシステムである限り、尤度最大化、エントロピー最小化の原理に基づいていると言えます。
例えばChatGPTなどのLLM(大規模言語モデル)では、次の単語(正確にはトークン)の確率を記載する膨大な関数が定義されます。この関数はパラメータと入力を含みますが、トランスフォーマーやその他のアルゴリズムでは、この関数の形が複雑な形となります。関数の形の工夫により次の単語の確率分布を、より効率的な形で記載できるのです。ChatGPTは最尤推定された確率分布に従い、ボルツマン分布の温度を調整しながらランダムに単語を選択しているのです。
21世紀に入り数学の世界でも大きな発見がありました。長年未解決であった「ポアンカレ予想」がペレルマンにより証明されます。「3次元多様体が閉じて単連結であれば3次元球面と同相である」という予想ですが、曲がった空間を記載するリーマン幾何学から、リーマン曲率テンソルを省略したリッチーテンソルを動かし(リッチーフロー)、3次元球面に移行させる過程で、ペレルマンは「エネルギー汎関数」と「エントロピー汎関数」を定義します。後者は減少することは無く、任意の閉じて単連結の3次元多様体がシンギュラリティ―に特殊な手術を施すことで3次元球面に移行できることを証明します。このように、数学の証明にエネルギーやエントロピーの概念を応用した例は他にも出てきています。この概念を取り入れることで新たな数学の展開が可能となったのです。
更に物理の世界でも、宇宙が加速膨張をしていることが発見され、「ダークエネルギー」が必要となってきました。また、ブラックホールのエントロピーが境界面積と比例することなど、エネルギーやエントロピーの概念が不可欠となりつつあります。ヴァーリンデのエントロピック重力理論なども将来的に基本法則に大きな修正を迫る可能性のある理論です。
産業界や我々の社会でもエネルギーは大問題となっています。化石燃料のような、封じ込められた太古の太陽エネルギーを利用する事の問題点が明らかになっています。更に、AIデータセンターの使うエネルギーが問題化しつつあります。AIの使うエネルギーは脳、遺伝子に比較して極端に多く、非効率的である事が問題です。前述のように、私はAIの進歩はエネルギーの限界の壁を越えられないとみています。そして、科学や産業においてもフロンティアは「情報」から「エネルギーとエントロピー」に変化すると主張しています。
熱力学のエントロピーは「限られたエネルギーを効率的に用いるための指標」、ボルツマンのエントロピーは「秩序の乱れの指標」、シャノンのエントロピーは「情報の大きさの指標」、AIのエントロピーは「過去から未来予測の正確性の指標」です。言葉で書くと異なった印象を持ちますが、数式では同じであり、共通の概念を意味しています。エントロピーは減少する事はありませんが、できるかぎり上昇を減らすことが今後の我々の指標となります。これから、生命の、集合体の、国の、地球のエントロピーの上昇を最小化することが科学の、技術の、産業の最大の目標となると考えています。もちろんその目的を達成するために「モノ」を対象とし「情報」を用いるのです。
20世紀のフロンティア「情報」と、がん研究
以上の主張に合意される方は少ないでしょう。19世紀から21世紀にかけて、フロンティアが、モノ→情報→エネルギー/エントロピーに移ったという説について、「本当か疑わしい、本当だとしても、それが何の意味があるのか?」という考えに至るのも当然のことです。
そこで、私の経験から有用性の実例を紹介したいと思います。それにより、このような考え方が妥当であることを示すとともに、このような思考法がAI時代に必要となる人間固有の視野の持ち方となることを提案したいと思います。
私は20世紀に、科学のフロンティアは「モノ」から「情報」に移ったと確信し、コンピュータ、統計学、遺伝学を専門としました。また遺伝子の情報を担うプリン・ピリミジン代謝と痛風を医学の分野で専門としました。
私が医学研究を開始した1970年代には、遺伝病が遺伝子によることはわかっていましたが、がんの原因は不明でした。私は、遺伝性がんの存在や、遺伝性がんが若年で起き、一般の癌が高齢者に起きることなどから、ヒトのがんが遺伝子の変異で起きると確信しました。そこで、ヒトの癌細胞株の酵素を測り、MTAP(methylthioadenosine phosphorylase)欠損がんを発見し報告しました(1980年)。これは世界最初のがん抑制遺伝子の発見です。MTAP欠損がんはヒトがん細胞株の約23%、in vivo白血病細胞の約10%に存在すると発表しましたが、最近の膨大ながん遺伝子研究では固形癌の11.4%がMTAP欠損であることが発表されています。更に我々はmethotrexateなどの薬剤がMTAP欠損がん細胞を選択的に殺すことを発表しています。これは世界最初のがんの個別化治療法の発見でした。現在でも世界の15以上の製薬会社がmethotrexateの類似体を含めたMTAP欠損がんの個別化治療薬を開発しています。
なぜ、我々がそれらの重大な人類遺伝学の臨床応用を世界最初に発見できたかというと、科学のフロンティアがモノから情報に移り、その最上位に「遺伝子」が存在する事をいち早く認識できたからです。また、遺伝子の動きと働きを支配する遺伝統計学を理解していたからでもあります。他の研究者は、モノであるDNAが明らかになるまで遺伝子を正しく認識できませんでした。つまり「情報」を正しくとらえることができなかったのです。
20世紀にフロンティアとなった「情報」は、ボルツマンやメンデルが19世紀には全く評価されなかったことに示されるように、「モノ」のように多くの人が評価できる対象ではなかったのです。また、がんの個別化治療法には殺虫剤や抗生物質からの発想が関係しています。殺虫剤や抗生物質は、異なった種の間の遺伝子の違いを利用して、片方の種を殺すという構造を持ちますが、その種間の違いを細胞の間の違いに適用したのが、がんの個別化治療です。殺虫剤の、遺伝子の違いに基づきヒトには無害で昆虫を殺す化合物に倣い、遺伝子の違いに基づき正常細胞には無害でがん細胞を殺す化合物を見つければよいわけです。これが、がんの個別化治療の発想です。以上の思考過程は「モノ」の構造ではなく「情報」の構造の類似性を定義する圏論の「同値」「随伴」に類似した発想です。この「情報の構造」もモノの構造と違って、当時容易に評価できる対象ではありませんでした。
我々は更に別の人類遺伝学の臨床応用も発想しました。遺伝病の表現型から治療薬を見つけるという方法です。ADA(adenosine deaminase)欠損症ではTリンパ球がほぼゼロになり、先天性免疫不全症が起きます。このメカニズムを利用したTリンパ系の腫瘍を治療できないかと発想したのです。ADA欠損症では基質であるdeoxyadenosineが蓄積し、それがdATPに変化してTリンパ球を殺します。このメカニズムを利用するにはADAに分解されないdeoxyadenosineの類似体を使えばよいと発想したのです。その物質はdeoxyadenosineの類似体でADAに分解されないchlorodeoxyadenosineです。これは現在でもT細胞白血病の治療薬として使用されています(クラドリビン)。
がんに関連する遺伝子、それにも続いた個別化治療法、遺伝子と表現型の関連からの創薬という、これら重大な人類遺伝学の臨床応用を世界に先駆け、DNAが明らかになる前に発見できた理由は、20世紀のフロンティアである「情報」を正しくとらえ、情報に必要な確率や統計の概念を十分理解できていたからです。情報を正しく理解できず、モノであるDNAが明らかになるまで遺伝子を正しく認識できないと、このような発見は不可能でした。
21世紀のフロンティア、エネルギー/エントロピーと創薬
45年も前の自慢話はこれくらいにして、今役立つ話をましょう。
前述のとおり、20世紀の医学や生物学のフロンティアは「モノから情報へ」のシフトでしたが、21世紀、科学のフロンティアは「エネルギーとエントロピー」に移りつつあります。物理学の「ランダウアーの原理」が示すように、情報の消去や生命の秩序(低エントロピー状態)の維持には、必ずエネルギーが必要です。生命体も同様で、病気(疾患)とは、エネルギー不足などにより秩序が保てなくなり、エントロピーが増大した状態であると再定義できます。
人間の全遺伝子は2万個を超える程度ですが、この約10〜20%はエネルギーに関連しており、全疾患の10〜20%もエネルギー関連疾患だと推定されます。特に脳や筋肉は膨大なエネルギーを消費するため、その影響を強く受けます。この視点に立てば、全く新しい創薬アプローチが可能です。エネルギーを制御する事で約10-20%の疾患(遺伝病もありふれた疾患も)の治療薬が新たに開発できると考えられるのです。
我々は思考シミュレーションを繰り返し、エネルギーであるATPを増強する効率的な方法を発見しました。それは、XOR阻害薬(フェブキソスタット、トピロキソスタット、アロプリノールなど)とヒポキサンチンを体内で供給する化合物(イノシンなど)の配合薬です。このエネルギー増強戦略はプラグインハイブリッド車の手法と類似しています。プラグインハイブリッド車がブレーキ時のエネルギーを捨てずに再利用するように、ATPの元となるヒポキサンチンの分解をXOR阻害薬で防ぎます。更に、プラグインハイブリッド車が外部から充電するように、ヒポキサンチンとなる物質(イノシン等)を外部から補給します。この生体エネルギー増強薬は、パーキンソン病やアルツハイマー病、サルコペニアなどへの効果が期待され、現在治験も進行しています。 全ての遺伝病の10-20%、すべてのありふれた病気の10-20%に効果が期待できます。
AI時代の人間の役割
AI時代の人間の役割は、AIが不得意とする「発想」「納得」「決断」「責任」です。この中で「納得」と「責任」は人間固有のものです。「発想」と「決断」はAIにも可能ですが、AIには不可能な部分があります。
私はAIが不得意とする発想法として「クロス思考」と「メタ思考」を提案しています。クロス思考は異なった分野の類似構造を発見し、新たな視野を得るという方法です。上記の、殺虫剤と個別化医療の類似構造、エネルギー増強剤とプラグインハイブリッド車の類似構造がその例です。圏論では「同値」「随伴」に相当するものですが、数学的厳密性から逸脱する事が肝要です。完全な数学的厳密性はAIの餌食です。
メタ思考は現在の視野の一次元上の視野を得るという方法です。この手法の一つとして「AI反教師法」を提案しています。反面教師ではなく、反教師です。AIに相談して右を推奨されると、あえて左に進むという方法です。ただそれだけでは荒唐無稽になりがちです。そこで、現実のデータとの照合のため最尤法やベイズ統計を使うのです。ただし、これらはAIが最も得意とする方法です。そこで、数学的厳密性からの逸脱が重要です。数学的厳密性はAIの餌食です。
AIの威力は認めざるを得ませんが、わが国は予算と人材の点で米国、中国と正面から競争する事は賢い選択とは思われません。AIに依存すると、人間の思考力は退化します。その間に、我々は彼らの開発したAIを利用し、AIが不得意な人間独自の能力の開発に焦点を当てるべきです。

