理事長通信
第27号 構造と実存のあいだで
最近、私は医療、AI、組織運営、宗教、国家制度など、一見異なる社会の課題に共通する一つのパターンがあるように思えてきた。それは「構造」と「実存」の関係である。
人間は不確実な現実を理解し秩序化するために、制度、法律、宗教、学問、医療ガイドラインなど、さまざまな構造を生み出してきた。構造は本来、人間の営みを支え、目的を達成するための手段であり、社会を効率よく動かすために欠かせない。
しかし構造は発展するにつれ独自の価値を持ち始める。制度を維持すること、規則を守ること、診断を確定することが目的となり、本来守るべき人間の現実が見えにくくなる。医療では患者より診断基準が重視され、宗教では信仰より教義が優先され、組織では理念より制度維持が優先されることがある。これは構造の欠陥ではなく、構造が有効だからこそ生じるジレンマなのだと思う。
一方、人間の経験や苦悩、喜び、選択といった実存は、常に構造の外側にはみ出している。どれほど精緻な理論でも、一人ひとりの現実を完全に記述することはできない。だから社会は構造を作るだけでなく、それが現実のために役立っているかを問い直し続けなければならない。
この問題を考えるとき、私はレヴィ=ストロースとサルトルを思い出す。レヴィ=ストロースは文化や思考の背後に普遍的な構造を見いだし、サルトルは人間の自由な選択という実存を重視した。しかし現実の社会は、そのどちらか一方では説明できない。人間は実存から構造を生み出し、その構造に支えられて生きる。そして構造が硬直化すると、再び実存の側から修正が加えられる。社会とは、この往復運動によって維持されているのではないだろうか。
この感覚には、多神教的な世界観も影響しているように思う。唯一の正解を前提とするのではなく、多様な存在がそれぞれ意味を持ち、何が正しいかよりも、どのように共存するかを重視する。その柔軟さに私は共感している。
私は長年、臨床医として患者と向き合い、研究者としてデータを集め、教育者として人を育て、組織運営にも携わってきた。実存の世界から出発し、やがて診療ガイドラインや研究プロジェクトなど、構造を作る側にも加わった。その経験から、構造の価値も限界も理解しているつもりである。診断基準や方法論、制度は不可欠である一方、それだけでは患者を救えず、組織の論理が個人を傷つけることも少なくない。
若い頃は、より良い構造を作ることこそ社会への貢献だと考えていた。しかし年月を重ねるにつれ、日々の臨床を誠実に行ってきたことの価値が思っていたよりもに大きいことに気づくようになった。そして構造は目的ではなく手段であることを、より強く意識するようになった。
患者のために医療があるのであって、医療のために患者がいるのではない。人間のために制度があるのであって、制度のために人間がいるのではない。
この当たり前のことが、無意識のうちに忘れられることが往々にしてある。
宗教もAIも同じ構図を持っている。信仰という実存から始まった宗教は教義という構造を生み、AIも本来は人間の思考を支援する道具である。しかし、それを絶対的な審判者として扱えば、新たな構造が生まれる。AIには答えを求めるのではなく、自分が見落としている視点を映し出す鏡として使うことこそ、AIリテラシーなのではないかと思う。
私が目指しているのは、構造を否定することでも、実存だけを称揚することでもない。構造の価値を認めながら神聖視せず、実存を尊重しながら感情だけにも流されない。その間を行き来し続けることが、人間の営みなのだと思う。
最近、藤井風の「手を放す」「軽くなる」「満ちてゆく」という歌詞が繰り返し心に浮かぶ。若い頃は構造を築くことに力を注いだ。今は、それに執着しないことを学びつつある。それは構造を否定することではない。構造の役割を理解したうえで、それに縛られない自由を持つことである。
この考え方は、私にとって最初は医療の指針であり、やがて組織運営の指針となり、今では人生後半を生きるための指針となっている。これが世界の根本原理かどうかはわからない。しかし、この視点を持つことで、自分自身が構造にも実存にも偏らずにすむのではないか。そう考えながら、私は今日も「構造と実存のあいだ」を往復している。
2026年9月1日
公益財団法人公益財団法人 痛風・尿酸財団
理事長 山中 寿

