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理事長通信

第12号 新型コロナ禍で、文系と理系の違いを考える

新型コロナ感染の広がりが瞬く間に減少し、日常生活上の宣言も解除されて、コロナ禍も一段落した感があります。急激な減少理由が説明できないとよく言われますが、デルタ株が猛威を振るった後に、急激に減少したインドの首都ニューデリーでは、28,000名を対象に抗体検査が実施され、抗体保有率が97%に上ったとの報道がありました。つまり、有症状の感染者以外に無症状の感染者が相当数いて、事実上の「集団免疫」が達成されている可能性があるようです。日本でもインドと同様に新規感染者が激減しましたが、インドと同様の事が起こって「集団免疫」が達成されているかどうか、是非とも知りたいところです。そのためには、住民や職域、大学などを対象とした抗体検査を実施することが必要です。現実で何が起こっているのかを知るためには、科学的なデータに基づいて判断せねばなりません。ところが、今回のコロナ禍では、十分な疫学的検討がなされなかったり、科学的な判断が政治に反映されなかったり、一部のメディアが自社の主張を肯定するように歪曲して伝えたりして、社会が混乱しました。なぜもっと科学的データを体系的に伝えられないのかと、忸怩たる思いをすることが多かったように思います。特に、情報源がテレビのみという高齢者の中には、ワイドショーの煽り報道に恐怖を覚えて、一歩も家から出ない人がいたり、誤った情報を発信するSNSを信じ込んで、反ワクチン論者になった若者など、もう少し何とかできたのではなかったかと思います。

新聞社やテレビ局など、報道各社の社員には、圧倒的に「文系」の人間が多いと聞きます。今も昔も大学は文系の学部と理系の学部がありますので、大学受験を目指す高校生は、必然的に文系、理系に分けられてしまいます。多感な青春時代に勉強する受験科目が違うだけで、その後のものの考え方が大きく異なってしまう事の重大さを、私たちはもっと認識するべきではないでしょうか?では、文系と理系は何が違うか。自分なりに、よーく考えてみました。文系の人々は、真実は数字にではなく、情緒的なものの中にあると信じて疑わない。数字の意味は自分が解釈すると考えている。同じ20%でも「20%しか」とも「20%も」とも表現する自由を自分たちは有していると考える人が多い。理系の人々は、真実は数字の中にあると信じて疑わない。20%は20%であり、80%と比較して少数であるとしか考えない。数字で表現できるエビデンスが真実であり、情緒で操作できるものは真実ではないと考える。このように考えると、今回のコロナ禍における報道の混乱は、メディアの大半が文系の人間で占められていることに大きく起因しているように思います。文系人間が大多数を占めるメディアは、数字を自分たちの都合の良いように取捨選択し、それが真実であるとして国民に報道しました。一方で、今回のコロナ禍では、理系人間である感染症や疫学の専門家が多数活躍され、正しい医療政策を行ううえで貢献していただきましたが、文系人間であるメディアの人々との軋轢はずいぶん大きかっただろうと想像します。

公益財団法人 痛風・尿酸財団に関与する方々、特にこのホームページをご覧になっている方々は、ほとんどが理系だろうと思いますので、上記には素直に共感していただけると思うのですが、本当は文系といわれる人々にこのことを知っていただきたいと思っています。機会を見て、そのような場で主張してみたいと思います。

私自身は、医学部出身で、40年以上にわたって科学的研究を行ってきた理系人間ですが、理系人間の中では、かなり文系に近い人間であると自負しております。文系の人々には、やや耳の痛い文章になりましたが、文系にシンパシーを有する理系人間が書いた文章だとお考えいただき、寛容を願えれば幸甚です。

 

2021年11月1日

公益社団法人 痛風・尿酸財団 理事長
医療法人財団順和会山王メディカルセンター院長
山中 寿

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