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2019年07月01日

第129号 これから医学・生物学はどう変わる?

私は大学を卒業した昭和48年頃、将来、医学・生物学の分野で三つのものが大切になると考えていました。三つのものとは「遺伝子、統計学、コンピュータ」です。特に遺伝子は我々を含めた生物の根源の情報を含むものであり、これからの社会で最も重要になると考えたのです。

しかし当時、遺伝子はメンデルの法則やワトソン・クリックの二重らせんでは知られていたものの、医学にはまだほとんど入ってきていませんでした。遺伝子の情報は4つの文字で書かれており(AGTC)その2つAGの代謝物が尿酸です。この2つの文字を構成する物質はプリン体と呼ばれており、その構造は尿酸で初めて解明されました。膀胱結石の分析から尿酸の構造がわかったのです。私は遺伝子を構成する物質に非常に興味を持ち、尿酸の研究を始めたわけです。

私が東大医学部を卒業して初めて所属した教室は、内科物理療法学教室(物療内科)です。この教室は、夏目漱石に多大な恩義のある岩波書店の創始者が、夏目漱石の松山時代の生徒であり、後の主治医となった真鍋嘉一郎のために尽力してできた教室です。そこには尿酸と痛風を研究する赤岡家雄先生がおられました。その上、当時の物療内科には大型コンピュータの端末があり、また当時日本を代表する統計学の研究グループがいたのです。即ち、冒頭に記載した私の三つのテーマ、「遺伝子、統計学、コンピュータ」がすべて手に入るという幸運に見舞われました。ただし、私が入ったころには増山元三郎氏をはじめ、統計学のグループのほとんどは東大物療内科を離れていました。しかし、多くの統計学の書物とコンピュータ端末は残されていました。そこでほとんど独学で統計学とコンピュータプログラミングを学んだのです。赤岡先生は当時、内科では珍しく遺伝病の研究をしておられたので遺伝学についても学ぶことができました。現在では内科の再編のため無くなりましたが、私は最初、東大物療内科で学んだことが非常に幸運であったと思っています。

私はコンピュータに非常に興味を持っていて、大学の学生時代には東大図書館や医学部図書館にあった大型コンピュータをたくさん使わせて頂きました。物療内科では前述のように大型コンピュータ(TOSBACだったと思います)の端末を使わせてもらいました。その後、ミニコンピュータが多く出回るようになり、更にはワークステーションと呼ばれた比較的小型のコンピュータが出現し、最後にはApple IIなどのパソコンが出てきました。当時、Apple IIを模倣したクローンと呼ばれるパソコンが多数販売され、そのスロットにZ80カードを挿すとモトローラの6802 CPUとインテル系の80系のCPUの両方を使うことができました。当時支配的なDOSはCP/Mでした。

しかし、最も衝撃を受けたコンピュータはマッキントッシュです。日本で発売された後、すぐさま購入しました。最初の、バージョン番号の無いMacDraw、MacPaint、MacWrite、Microsoft Word、Excelのフロッピーディスクを今でも保有しています。そしてしばらくして出現したMathematicaのソフトウェアに感激しました。今に至るまで、私にとって最も役立ったコンピュータソフトウェアはMathematicaです。後に、これを命名したのはスティーブ・ジョブズであることを知りました。これは計算ではなく、数式を取り扱うソフトウェアです。複雑な式の変形や連立方程式の解はもとより、微分方程式も解くこともできます。無限級数も取り扱えるし、行列計算も数式のまま処理する事ができます。世界の大数学者達がそばにいて、いつもアシストしてくれると考えると良いと思います。

私は、子供たちにも小さいころからMathematicaを勧め、今でも、大学生や一般人だけではなく、中学生、高校生の教育用に最高の効果を発揮すると信じています。記憶や計算ではなく、実行、納得、思考こそが数学の本質であることがわかります。Mathematicaは通常のパソコン用のソフトウェアとして購入すると極めて高いのですが、ラズベリーパイという1万円以下のパソコン(おもちゃ?)を買うと標準で付いてきます。それでもある程度は使えるので、是非使ってみることを勧めます。子供には、ゲームを作るおもちゃだとだまして始めさせ、Mathematicaに誘導する事を勧めます。

さて、私の三つのテーマ、遺伝子、統計学、コンピュータは最初、別々のものに見えましたが、やがて統計学とコンピュータはほとんど融合するようになりました。手計算で行っていた統計学的検定や推定をコンピュータで行うようになってきたからです。更に、遺伝子研究も膨大なゲノム研究となり、コンピュータと統計学が必須となってきました。最初、別々の分野だと考えていた三つの分野が一つの分野のようになってきたのです。このように学問分野はしばしば融合します。

ここで、これからの展望を考えてみたいと思います。遺伝子、統計学、コンピュータの三分野はこれからも重要な分野であり続けると思います。しかし、ここで更にパワーアップした展望がそろそろ必要になってきそうです。例えば最初は遺伝子の配列を読むのが困難でしたが、今では機械とコンピュータが高速度で読んでいきます。約30億個あるヒトのゲノム配列が読まれたのが2003年ですが、その後、多くの生物のゲノム配列も読まれました。ヒトゲノム配列は個人ごとに異なりますが、その違いも急速に解明されています。もうしばらくするとすべてのゲノムが解明されるでしょう。mRNAも蛋白質も、化学物質も新しいものは限られてくるでしょう。それでは次に何が大切になるでしょう。

量子論の扉を開いた偉大な物理学者シュレディンガーは生物学にも大きな関心を寄せていました。彼は「生物とは何か?(What is life?)」という著書を発表しています。この中で、二つの重要な主張をしています。その一つは、生物は、その一生に影響する「記載された記号(code script)」を持つはずだ、というものです。この予測に大きな刺激を受けたワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造による遺伝子暗号のしくみを解明したことは有名なはなしです。

シュレディンガーは生物についてもう一つの重要な主張をしています。それは、生物は外部から「負のエントロピー(negative entropy)」を摂取し、それにより内部の秩序(orderliness)を維持している、というものです。生物のcode scriptは解明されましたが、負のエントロピー問題はいまだ完全に解明されたとは言えません。

エントロピーは熱力学で出現する重要な概念です。系の状態を表す状態量で統計力学では無秩序の指標と解釈されます。熱力学の第二法則は、不可逆な過程では断熱系のエントロピーは必ず増大すると主張します。つまり、自然の状態では秩序から無秩序へと向かうと考えられます。もしこの主張が誤りであると仮定するとエネルギーを必要とせず仕事をする永久機関が可能となり、矛盾が生じることがわかります。

マックスウェルにより、エントロピー増大に反する可能性のあるモデルが提出されています。マックスウェルの悪魔(Maxwell’s demon)です。閉じた二つの部屋が同じ温度、圧力の同じ気体で満たされており、その間に小さな窓があります。この窓を悪魔が開閉し、開いた時だけ気体の分子の通過を許すというモデルです。悪魔は片方からの高速分子のみ、逆方向からの低速分子のみを通します。結果的に、両方の部屋の温度に差ができます。この過程にエネルギーが必要無いとすると、結果的に生じた温度差を利用して仕事ができるので永久機関が可能であることになります。

実際には悪魔が分子の速度を知る情報入手から窓の開閉の過程のどこかにエネルギーが必要であると考えられています。現在では、悪魔が分子の速度の情報を得るためではなく、過去に得た情報を捨てるためにエネルギーが必要であると考えられています。

このマックスウェルの悪魔のモデルは生物の本質を良く表しています。シュレディンガーの言うように生命が外から負のエントロピーを取り入れて内部秩序を保つシステムと考えるなら、それに必要な要素がこの中に入っていると考えられるからです。まず「モノである分子」、次に「悪魔である情報」です。しかし、この二つの要素では秩序は保てません。もしそうだとすると熱力学の第二法則に反するからです。必要な第三の要素は「エネルギー」です。即ち生物は「モノ」を対象に「情報」と「エネルギー」を用い、負のエントロピーを生み出していると考えられます。

この三つの要素は生命で言えば、分子、遺伝子、ATPで代表されます。例えば細胞内はK、細胞外はNa濃度が高く、この細胞内外のイオン勾配は「秩序」と解釈され、エントロピーの低い状態と考えらえれます。しかし、さまざまな活動により、このイオン勾配は低下します。即ち無秩序に近くなり、エントロピーが増大します。これを秩序に復帰させる要素はNa/K-ATPase(イオンポンプ)です。Naを細胞外にくみ出し、Kを細胞内に取り込む装置です。これにより、低下したNa、Kの細胞内外の勾配をもとに戻します。即ちエネルギーであるATPを用いてエントロピーが低い状態に復帰させています。Na/K-ATPaseは蛋白質であり遺伝子の情報により作られています。それはマックスウェルの悪魔のように遺伝子の情報をもとにNaとKの分子を区別し、エネルギーを用いて動かします。

生命が負のエントロピーを摂取し、内部秩序を維持するシステムとすると、その障害は不都合を生じることが予想されます。即ち、疾患や死は内部秩序の乱れと解釈される可能性があるのではないでしょうか。確かに分子の不足や過剰、遺伝子の不都合は秩序の乱れ、即ちエントロピーの増大を招くと考えられます。例えばNa、Kイオンの過不足、Na/K-ATPaseをコードする遺伝子の変異は細胞内外のイオン勾配に障害を来し、疾患の原因となるでしょう。酸素不足やブドウ糖不足では脳のATP不足によりイオンポンプが不調を来しニューロン内外のイオン勾配が保てなくなります。それは短時間に脳死を来す原因になります。また、ニューロンが発火する時ではなく、イオン勾配を元に戻すときにエネルギーが必要だという事実は、マックスウェルの悪魔が情報を得るときではなく、消し去る時にエネルギーが必要であることと類似しています。

生物をエントロピーと秩序の面からみると、モノ(分子)、情報(遺伝子)、エネルギー(ATP)が重要な三要素であることがわかります。私は、今後の医学・生物学において負のエントロピー(秩序)を維持するシステムの解明が次のフロンティアになると予想しています。そして、そのために三要素の一つであり、いまだ解明が進んでいないエネルギーの問題が重要であると考えています。モノ(分子)や情報(遺伝子)に関係する病気は数知れませんが、エネルギー(ATP)に関係する病気はそれほど知られていません。約2万個の遺伝子の少なくとも8%がエネルギーに関係するにもかかわらず。

このように負のエントロピーを生み出すシステムは、進化の中でゲノムが獲得してきたに違いありません。なぜなら、ミトコンドリアゲノムも含めゲノムだけが世代を超えて伝わるからです。進化で残る確率が高く、増える確率が高いほどゲノムシステムは残りやすいことになります。そのように残ってきたシステムが現在の我々のゲノムシステムなのです。ゲノムは変化する事が可能なので、このシステムは残る確率が高くなるようにゲノムを変化させてきたと考えられます。この過程は、いわゆる最尤法に酷似しています。ゲノムをパラメータとし、そのゲノムが残る確率を関数として表すと尤度関数(likelihood function)となり、入力変数に応じ、望ましい出力が得られるようにそのパラメータを動かすことで関数を大きくする過程が最尤法です。つまり進化とは、ゲノムをパラメータとし、環境を入力変数とした尤度関数を大きくする方向に動かす過程であると考えられます。

ここで、尤度関数の対数を取ると、定数部分を無視すれば負のエントロピーと同じになる事がわかります(パラメータとしての確率と実際に起きた割合を区別すると負のクロスエントロピーになります)。従って、尤度関数を大きくすることは、エントロピーを小さくすることと同じことになります。つまり、進化とはエントロピーを小さく(負のエントロピーを増やす)方向に動いている現象と考えられます。

脳のシステムについても似たメカニズムが働いています。脳の場合、パラメータはシナプス可塑性、入力変数は感覚器からのデータだと思われます。最近ではシナプスの改変も盛んにおこなわれているという事もわかっているので、それもパラメータである可能性もあります。脳もゲノムの情報をもとに構成されており、生存確率の高い脳を作るゲノムが残ってきたと言えます。初期には捕食者から逃げる能力、捕食の能力を高めるために神経と筋肉のシステムは発達したのでしょう。脳もまた、尤度関数を大きくし、エントロピーを小さくするという原理の下に進化してきたはずです。これは脳を模した人工知能のdeep learningのシステムにも反映されています。Deep learningの学習の原理は最尤法であり、尤度関数の対数である負のエントロピーを生み出す過程です。即ち、deep learningの学習の評価には最小二乗法、ロジスティック関数、クロスエントロピーが用いられますが、これらはすべて本質的に最尤法であり、エントロピーの最小化なのです。

ただし、ゲノムのシステムと脳のシステムには異なった部分もあります。ゲノムの改変には20年ほどの時間が必要ですが脳の改変は一世代で何度も起きます。ゲノムは誤ると死を迎えますが、脳は試行錯誤がある程度可能です。おそらくそれが線形モデルを主としたゲノムシステムと、非線形を主とした脳のシステムの違いを作っているのでしょう。

いずれにせよ、ゲノムシステムも脳も、入力を変数とし、ゲノムやシナプス可塑性をパラメータとする尤度関数を経て出力を行うシステムだとすると、その尤度関数を保持する必要があるでしょう。入力と出力を通じて、その尤度関数、またはその対数である負のエントロピーを最大化するシステムが必要です。そして、人間の脳が生み出した「数学」は、このように負のエントロピーを生み出すために進化で作られた脳のシステムをモデル化したものと考えられないでしょうか。つまり数学は認識から独立ではないという事になります。そのため、進化に直接関係してきた状況においては(例えばニュートン力学)、数学が認識と独立に成立するように見えますが、進化に関係しなかった量子論では、対象の存在さえ観察と無関係には定義できないようになるのでは無いでしょうか。

私は、今後、ゲノムシステムとともに、脳のシステム、それを模した人工知能(AI)の研究が重要になると予測しています。ゲノムシステムが脳のシステムを作り、脳のシステムがAIを作るという因果関係があります。いずれそれらの三つの分野は融合するでしょう。例えば数学的思考の基礎を形成する代数構造が脳の中でどのようにシステム化されているかがAIのシステムの補助で研究され、それがゲノムシステムでどのように維持されているかが研究されるでしょう。そして、科学を根底で支える「数学」が、ゲノムと脳の進化に依存する事が明らかになるのではないでしょうか。


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