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第97号 桜は本当に美しいか

日本中を「桜前線」が駆け抜け、ようやく朝晩もコート無しに過ごせる季節を迎えようとしています。一斉に咲き、短い満開の時期を一斉に終える桜(特にソメイヨシノ)は、その華やかさとともに日本人の心に深く響く存在です。古来、桜を愛でた歴史上の人物は枚挙に暇がありません。私も桜は本当に美しいと思います。しかし、あまりに全員が褒め讃え、誰も反対しないのもおかしいと思うので、あまのじゃくと言われることを覚悟の上で、問題点も指摘したいと思います。ソメイヨシノは、ほぼクローンに近いと言われますが、その「均一性」の問題点についてです。

異文化に始めて接した時の驚きは人によって異なるようです。約150年前の万延元年、咸臨丸で太平洋を超えた勝麟太郎が驚いたことは「米国では本当に立派な人が上の地位に就いていること」だったそうです。私は35年以上前米国に留学しましたが、そこで最も驚いたことは科学的レベルでも文化程度の高さでもありませんでした。それはテレビで見た集団のダンスの風景です。日本で見るダンスは同じ制服の、同じ背丈の、顔色も同じ(あたりまえですが)ダンサーが一斉に同じ動きをするのがダンスだったのです。しかし、米国で見たダンスは服装も違えば顔色も異なり、背丈も異なる人達が同じ曲に合わせダンスをしている姿です。振付もそれぞれの人で異なることもあり、異様な光景に見えました。また、米軍の行進を見るとさすがに制服は同じですが背丈も顔色も異なった兵隊が行進しています。

このような多様性を「美しい」と感じるためには、それなりの時間と慣れが必要でした。やはり日本人である私には「均一」である事こそ美しいという美意識が頭に深く刻まれて離れなかったのです。皆さんはどうでしょう。均一のダンスチームと多様性を持ったダンスチームのどちらが美しいと感じますか。均一な軍隊行進と、多様性を持った軍隊行進のどちらが美しいと感じますか。一斉に咲き、一斉に散るソメイヨシノと、あっちこっちで様々な色と時期に咲く花々のどちらが美しいと感じますか。

考えてみれば米国人も均一性を美と感じる気持ちを持っている可能性もあります。しかし、人種の多様性を許容しないことには日常生活を送れないのが現実なのです。これからの日本はどうでしょう。比較的均一な人々の社会がこれからもずっと続くでしょうか。近い将来、我々は、このまま均一性を続けるか、多様性を受け入れるかの選択をせまられる可能性が高いと思います。例えば、移民を受け入れるかの問題があります。また、周囲の国々との関係も考える必要があるでしょう。国内の均一性を重視すれば、国外との距離は遠くなり異質性が目立つようになることは必然だからです。均一性を頑なに維持しようとすれば、人口の縮小や経済の劣化は免れることが困難でしょう。みんな同じように貧しくなっていくのならそれでも良いという考えもありえますが、それでは急激に増える高齢者を誰が支えていくのでしょう。

私は、今や日本社会も「均一性」に美を感じるだけではなく「多様性」にも美を感じる思考構造を身につけるべきだと考えます。多様性は必然的に「不確実性」の概念を要求します。一人に通用することが、他の人にはそのまま通用しない可能性があるからです。そして不確実性と多様性を前提に社会に役立つことを行うとすると「情報」の重要性が大きくなります。それを身につけるためには繰り返し述べてきたとおり、「集合と要素」「変数と値」「質と量」の違いを区別する思考構造を身につける必要があります。日本語の下ではそれらを理解することが困難なことも指摘してきたとおりです。

みんな同じ、という「均一性」には、平等や一体感などの利点も多いことは事実です。均一である「モノ」を作る製造業にはそちらのほうが好都合である可能性もあります。しかし、平等や一体感の影で排除されがちであった少数者がいたこともまた事実です。戦争、産業、医療のどの現場でも、日本では「情報」を理解する人が少なく「論理や数理」より「直感と情緒」でものごとを判断しがちであったことも事実です。そのため、真の情報産業が育ちにくかったことも問題です。今や、多様性を受け入れざるを得ない時代に我々は住んでいます。

ソメイヨシノの寿命は比較的短く、50年を過ぎると枯れ始め倒れたりすることも稀ならずあるそうです。近代の経済に代表される我が国の隆盛が、桜のように一斉に咲き、一斉に散るような経過にならないことを切に願っています。

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