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第64号 新しい産業に対応するための教育(6) なぜ日本社会は情報が不得手か?

自分の考えをまとめたり、他の人に伝えたりする手段として、話すことと書くことがあります。書くことの中には文章と数式があります。数式は後回しにして、ここでは文章を対象にして議論を進めます。

情報は「モノ」の上に構築された構造です。まず、モノをどのように捉えるかが重要です。私は日本語を話す人々と英語を話す人々の間でモノの捉え方が異なっており、そのために日本社会は情報を理解することが不得手だと考えています。

モノを示す語は「名詞」です。日本語には可算名詞、不可算名詞の違いがありません。単数、複数の違いがありませんし、集合名詞の概念もありません。名詞を対象とした不定冠詞、定冠詞の違いがありません。これらの違いは情報という構造物を構築するために不可欠の要素です。

例えば、前にも述べた「赤いリンゴはおいしい」という情報を考えてみましょう。「赤いリンゴ」は、一つの赤いリンゴをさすのか、複数の赤いリンゴをさすのか日本語ではわかりません。複数の赤いリンゴの集合を指す場合もあるでしょう。また、特定の赤いリンゴを指すのか、赤いリンゴの集合の中の任意の一つを指すのかわかりません。これらは英語で書くと区別することができます。A red apple, the red apple, red apples, the red applesなどと区別してかけます。むしろ、それらの区別がわからないと英語の文章を書くことができないと言えます。

「赤いリンゴはおいしい」という情報の真偽を調べるためには「赤いリンゴ」と「おいしいリンゴ」という2つの集合を定義する必要があります。2つの集合が独立である場合、「赤いリンゴはおいしい」とは言えない事になります。任意の赤いリンゴを食べた場合と、任意の赤くないリンゴを食べた場合、おいしい確率は同じということになります。ただし、任意の赤いリンゴがおいしい確率が高いとしても、特定の赤いリンゴはまずいということはありえます。これらの考察の中で、「集合と要素」「任意の要素と特定の要素」の違いがいかに重要かが理解できたでしょうか。

「任意の要素と特定の要素」の違いは「変数と値」の違いに対比されます。もし、おいしさを数値で表すことができるとしたら、任意のリンゴのおいしさは変数で表されます。特定のリンゴのおいしさは値で表されます。変数と値は数学には不可欠の要素です。

リンゴのような対象物は可算名詞であり、複数と単数の違いがありますが、水のような対象物は不可算名詞でありそのような区別はありません。英語を話す場合、対象物が可算か不可算かを常に意識する必要があります。数では自然数、整数、有理数は可算ですが、無理数は不可算です。モノを対象とした情報についても、対象であるモノが可算の場合と不可算の場合で取り扱いが大違いです。不可算の対象物の集合は多くの場合無限の要素を持ちます。

以上のように、日本語を話していると英語を話している時のような、モノを対象とした構造を理解する上で不可欠な概念が育ちにくいと考えられます。しかし、物理学は日本人が得意な分野です。物理学の分野こそ、モノを対象にした構造の理解が必要なのではないでしょうか。物理が対象とする時間、空間では変数の値が並んでいるという特徴があります。これが直感的理解を可能にしているのではないでしょうか。これに比較して生物は並んでいません。生物を対象とする場合、変数は任意の個体の中にあります。値は特定の個体の中にあります。物理の場合、並んでいる値に変数を対応させ、微分や積分を行うことにより対象物の分析を行います。しかし、生物は並んでいないので集合を定義する必要があるのです。例えば、赤いリンゴは並んでいません。もちろん、木から採取して、赤い順に並べることは可能です。しかし、今度はおいしさの順に並んでいません。

変数が並んでいれば短冊状の面積を加えることにより積分することが可能です。リーマン積分です。しかし、生物は並んでいないので積分に相当する概念を構築することが容易ではありません。そのために集合を定義し、その集合の大きさのような概念である「確率」を定義するのです。確率のような概念を「測度」と云います。集合を対象とし面積のような「大きさ」を定義していく事が確率を理解するために重要です。実数の集合を対象とし、積分のような概念を定義する方法をルベーグ測度と云います。この概念は集合を常に意識しないと、なかなか理解することが困難です。

確率の概念がよく理解出来ないと100%ではない状態を実感として捉え、納得することが困難です。日本社会が100%を要求する理由は、100%ではない状態を頭のなかで理解し、納得することが不得手だからだと私は考えています。その原因が言語にあるのか、あるいは他に原因があるため日本語に上記の概念が存在しないのかわかりません。おそらく、その両方とも正しいでしょう。

実はすべての科学分野の中で、日本で極めて手薄な分野があります。イギリスの人類遺伝学者ハーパーは「遺伝医学の歴史」と言う著書の中でこう書いています。「日本の事情は特殊である。科学技術や医学のレベルは高度なのに、人類遺伝学と遺伝医学が極端に弱い。」実はもう一つ弱い分野が有ります。統計学です。統計学は遺伝学から出た分野なので、何か共通の理由により日本人がこの分野を不得意とすると考えられます。

統計学は多様性(variation)を対象とする科学ですが遺伝学は何を対象とする科学でしょう。実は「遺伝学」は多くの日本人が考えているような「遺伝の科学」ではありません。英語圏ではgeneticsと呼ばれ「遺伝(heredity)と多様性(variation)を対象とする科学」と定義されています。日本語に訳すときに、この「多様性」の部分が抜け落ちているのです。遺伝の対象物は並んでいます。祖父母、父母、子と並んでいます。しかし、多様性の対象物である人々は並んでいません。日本社会はこの「多様性」の概念を捉えることが不得手なのです。

日本では分子としての遺伝子の研究は盛んです。しかし、DNAを情報として捉え、その情報と表現型との関連を調べる遺伝学は得意ではないのです。モノを捉えることは得意ですが、情報を捉えることが不得手だからです。人間以外の遺伝学の分野では比較的日本が強い理由は純系を対象とすることが多いからだと思います。純系の生物の遺伝子は均一です。

医学において最も大切な対象物は表現型です。医学的行為によって分子や細胞がどんなに良くなっても、表現型が良くならなければ意味がありません。食糧提供としての生物学においても同様に表現型が最も大切だと思います。もちろん分子から細胞ができ、臓器ができ、人間や生物ができているのですが分子と表現型との関係はそれほど単純ではありません。著しい個体間の多様性があるからです。関連や因果、確率などの概念を用いて厳密に考察する必要があります。しかし、日本では多様性を無視し、それを直感的、情緒的に結びつける傾向があるのではないでしょうか。

次は、高度なサービス産業に必要な技術について述べます。

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