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2011年04月14日

第18号 ヒトゲノムの安定性と放射線障害

東北関東が未曾有の大震災に襲われました。多くの方々が地震と津波で亡くなり、生き延びた方々の中にも病院や避難所での生活を余儀なくされている人々が大勢います。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災者の方々にお見舞いを申し上げます。

大震災に伴い、福島第一原発で放射能漏れが生じ、大勢の人々が避難を余儀なくされています。更に、日本全体を放射線、放射能に対する恐怖心が襲うという問題が生じています。この問題は放射能や放射線が目で見えないと言うことと、その影響が測り知れないという二点で深刻さを増していると言う面があります。

ここで、放射能、放射線の人体への影響について整理してみましょう。広島、長崎の原爆やチェルノブイリ原子力発電所の事故、更には東海村での臨界事故の場合は、被爆による急性障害が大きな問題でした。激しい火傷、骨髄が障害される事による白血球の減少、消化管の細胞が破壊される事による栄養障害などが問題となりました。しかし、今回はむしろ、それより低線量による慢性の健康障害が最大の問題です。

放射線による慢性障害はDNAへの影響により説明されます。DNAは遺伝を司る重要な物質なので、それへの影響は他の物質、例えばRNAや蛋白質への影響とは比較にならないほど大きいと考えられるのです。DNAは生物のそれぞれの種の存続に必要な情報をすべて含み、それを親から子へと伝えます。これをゲノムと呼びます。ゲノムの一部は遺伝子と呼ばれ、RNAを通じてタンパク質を合成する機能を持っています。また、これらのゲノムや遺伝子の情報は体内のすべての細胞に伝えられ、その細胞の機能を司ります。従って、ゲノムや遺伝子が変化すると、親から子へと伝えられる情報が変化したり、身体の細胞の機能が変化したりするわけです。

ゲノムや遺伝子の変化を「(突然)変異」と言います。放射線はまさにこの変異を起こすことで恐れられているわけです。ゲノムや遺伝子は上記のように極めて大切な機能を持っているので、それが変化する事は重大な影響を与えると考えられるのです。親から子へと伝えられる情報が変化すると遺伝病や先天性異常を引き起こすと考えられます。身体の細胞のゲノムや遺伝子が変化すると癌の原因になると考えられます。つまり放射線はゲノムや遺伝子に変化を起こし、その結果、遺伝病や先天性異常、癌を引き起こすと言う理由で恐れられているのです。

射線が変異を引き起こす事を最初に示した研究者は米国のマラーです。マラーはハエに放射線を人工的に当てることで変異が増える事を証明し、それによりノーベル賞を受賞しました。マラーは変異を非常に恐ろしい現象ととらえ、「我々の変異の荷重(Our load of mutations)」という有名な論文を発表します(1950年)。人間の遺伝子は精密にできた安定的なものであり、それが変化すると取り返しのつかないような事態が生じる。従って、変異は選択により除去されなければならないと言う考えです。

この考えが現在の放射線にたいする恐怖心の基礎になっています。しかし、研究はその後、大きく進展しています。まず、マラーの論文の3年後(1953年)、ワトソンとクリックは遺伝子がDNAという物質により保持された情報であることを明らかにしました。そして、マラーが予想したように、DNAが変化する事により人間の遺伝病や先天性異常も生じる事が解ってきました。更に、癌の原因も、細胞のDNAの変化によることが解って来たのです。

しかし、最近の研究により、ゲノムや遺伝子はマラーの考えたような精密で安定的な存在ではない事も明らかになってきています。マクリントックはトウモロコシの研究から、ゲノムを飛び歩く配列、トランスポゾンを発見し、ゲノムの安定性が厳密な物ではない事を証明しました。彼女は1983年にノーベル賞を受賞しています。また、利根川進は、免疫グロブリンを合成するB細胞で、免疫グロブリンの遺伝子のゲノム配列が変わる事を発見し、1987年のノーベル賞を受賞しました。

さらに、遺伝病の研究者たちは、人間においてゲノム情報の変化が日常的であり、遺伝病や先天性異常はその一部にすぎない事を発見しました。人間の30億のゲノムのうち少なくとも30個は一世代交代で変化していると考えられるのです。これは多くの種のゲノム配列を比較した結果とも一致しています。変異が起きる早さは中立分子進化速度に一致すると理論づけられるのですが、その結果からも約1億個に1つのゲノム情報の変化が1世代で起きると言う計算になります。更に、最近、一世代でゲノム情報が変化すると言う直接の証拠が出ました。1000人の、それぞれ30億個のゲノム配列を読むと言うプロジェクトによる結果です。多くの家系で、父親母親と子供のゲノム配列を比較した結果、やはり、約30個の情報が変化している事がわかったのです。これは一つの塩基のみが変化する場合で、その他の変化を加えると100を超える変化が起きていると考えられています。

また、身体の細胞におけるゲノムの変化の情報も次第に明らかになりつつあります。理化学研究所ゲノム医科学研究センターも参加する国際がんゲノムコンソーシアムにおいて、癌のゲノム情報が、もともとの本人のゲノム情報からどれくらい変化しているかを調べたのです。その結果、癌のゲノム情報は数千個から数万個変化していると言う結果が出ています。逆にいえば、身体の細胞のゲノムがちょっと変化したからと言って、簡単に癌になるものでもない、ということがわかってきたのです。

世代を超えたゲノムの変化も、身体の細胞におけるゲノムの変化も普通にかなり起きているとすると、放射線による影響は、量の比較の問題になります。つまり、ちょっとでもゲノムや遺伝子に変化が起きたら取り返しのつかない大変な事になると言うのではなく、ゲノムの変化は自然に起きているので、放射線がどの程度それを増やすかと言う事が問題になるのです。

人間に実験で放射線を当て、その影響を調べる事は不可能ですが、例えば広島や長崎の被爆者で、放射線の影響を調べる事はできます。実際に、長崎と広島の放射線影響研究所は全被爆者の調査を65年間にわたり実施しています。その結果は驚くべきものです。あれだけ強い放射線を浴びたにもかかわらず、被爆者の次の世代の遺伝子の変化が増加したと言う結果は得られていないのです。研究者たちは、タンパク質のレベル、染色体のレベル、遺伝子のレベル、ゲノム配列のレベルで、放射線の影響を熱心に調べていますが、その変化は被爆しなかった人の子供に見られる変化と違うものではありませんでした。

しかし、癌の頻度は増えます。最も増えるのは白血病と甲状腺癌です。例えば白血病は、被爆しなかった人に比較して1.5倍に増えます。つまり、白血病になった人の3人に1人は被爆によるものです。残りの2人は被爆しなかった人と同じ確率で白血病になったものです。白血病の治療は進歩しています。以前は死の病でしたが、現在は化学療法や骨髄移植により(報告によっても違いますが)寛解率80%、治癒率も50%となっています。白血病が被爆しなかった場合の1.5倍になるとしても、死亡する率が50%だとすると、白血病で死亡する率は以前の被爆しなかった人の75%ということになるでしょう。また甲状腺癌のほとんどは比較的良性の癌で、死亡に至る可能性は低いです。

DNAの変化はおおよそ被爆線量に比例すると考えられるので(ある程度以下の被爆はDNAに影響を与えないと言う説もあります)、これをもとに微量な放射線の被曝の影響を計算する事ができます。ご存知のように、喫煙にも癌を増やす作用がある事が知られているので、被爆による発癌と、喫煙の発癌に対するリスクを大まかに比較する事が可能です。広島長崎の生存被爆者は爆心地からの距離によって違いますが1シーベルト級の被爆を受けた人たちです。それに比較すると今回の大震災での一般人の被爆は桁が違います。

大まかな比較では次のようになります。

放射線による発癌リスクと喫煙によるリスクの比較

  1. 福島第一原発から200km離れた東京に住む人、高くなっても1マイクロシーベルト/日
    今日一日だけ煙草を0.1本吸った時のリスク。
  2. 福島原発から20km離れた所で最大の100マイクロシーベルト/日被爆した人
    2日間だけ煙草を5本吸った時のリスク。
  3. 胸のレントゲン一枚撮った人
    1日だけ煙草を5本吸った時のリスク。
  4. 胃のX戦検査を受けた人
    10日間煙草を5本吸った時のリスク。
  5. 胸部CTを受けた人
    140日間煙草を5本吸った時のリスク。
  6. 東京からニューヨークを飛行機で往復した人
    4日間、煙草を5本吸った時のリスク。

以上のように、放射線による健康障害の可能性はゼロではありません。煙草を吸った人のリスクがゼロでは無いのと同じです。しかし、そのリスクの大きさは、一人当たりは取るに足りないものです。ただし、禁煙運動により集団の癌のリスクが減らせるように、集団としては注意が必要なリスクです。集団としては放射線は少ないほど良い事は確かです。

私は統計学が専門ですが、これからの日本では統計学の出番が増えると思います。統計学は遺伝学から発生した科学分野です。統計学の役割は、人間につきものの不確実性を前提としたうえで、リスクを客観的に判断する事です。

平和で、安定していて、問題が少ない時は統計学の必要はあまりありません。そういう時は、むしろ、物事をセンセーショナルに報道して不安を掻き立ててたほうが面白いものです。平時において、統計学者はマスコミの嫌われものです。統計学者のコメントはマスコミには面白くも何ともない。せっかくセンセーションと不安を巻き起こせる報道が、統計学者のコメントにより、全くつまらないものになってしまうからです。しかし、今の日本のように不安が渦巻く時代には、面白くも何ともない統計学者の分析やコメントが重要になってきます。冷静で客観的な判断により過度の不安を解消するからです。


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