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第10号 日本における人類遺伝学教育の遅れ

日本は遺伝学の教育が非常に遅れています。英国のピーター・ハーパーという有名な人類遺伝学の教授が2008年に出版した「遺伝医学の歴史」(オックスフォード・ユニバーシティー・プレス)という本には次のような記述があります。「日本には特殊な状況がある。なぜなら、科学、技術、医学には高度な伝統があるにもかかわらず、遺伝医学と人類遺伝学が極端に弱いからである。」ところが、この分野の遅れに日本の学会や医学会、更には社会もあまり気付いていないように思えます。その理由の一つが、遺伝学の定義にあります。

「遺伝学」のもととなっている英語は「genetics」です。これは、国際的に「遺伝と多様性の科学」と定義されています。ところが、日本の「遺伝学」は、ことばの問題もあり「遺伝の科学」と捉えられがちです。そのため、「多様性」の教育が非常に手薄になっているのです。

日本の、この遺伝医学、人類遺伝学の教育の遅れによりさまざまな分野で問題が起きていいます。次のような発言もこの問題に関係していると思います。

現阿久根市の竹原信一市長は11月、自身のブログ(日記風サイト)に「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰(とうた)された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果、養護施設に行く子供が増えてしまった」と書き込んだそうです。ここでは「遺伝」とか「遺伝子」ということばは出ていませんが、遺伝学の歴史の上で出現した「優生学」という考え方とほぼ同じです。つまり、進化の過程では「優れた」遺伝子を持った個体が生き残り、「劣った」遺伝子を持った個体が淘汰されて行くのが自然である、という考えです。そして、人間は医療の発達などで「劣った」遺伝子が残るようになったから危険だというわけです。

福祉団体から障害者差別と反発の声が上がっているのは当然ですが、医師や科学者、更にはマスコミや社会からもこれに対して反論する必要があります。このような考え方は、倫理的に問題であるだけでなく科学的に誤っており、極めて危険で有害な考え方です。そのことを多くの人々があらかじめ知っておく必要があるのです。中等教育や大学の教育、更には社会において遺伝医学、人類遺伝学の教育が十分行き届いていれば、多くの人々がこのような考えの誤りに気付くでしょう。更には、研究者や医師も積極的にその誤りを指摘できると思います。

今回の阿久根市の市長のような考えは、人類遺伝学の歴史上、何度か出てきて、否定された考え方です。このような考えを「優生学」と呼ぶことは既に述べました。欧米ではそのような考え方が第二次世界大戦以前に蔓延し、遺伝学的に「劣った」人々を断種する法律さえできたのです。特に、ナチスドイツのヒトラーは著書、「わが闘争」を読めばわかるように、優生学的考え方を極端にまで信じ、実行した人です。国内では障害者を殺し、ユダヤ人を「劣った」民族と定義し抹殺しました。自分たち、アーリア人こそ最も「優れた」人種であり、他の民族を屈服させて支配することが世界の進む道であると考えたのです。それにより数百万人が抹殺されたと考えられています。

人類遺伝学を学べば、「優れた遺伝子、劣った遺伝子」という考えが、浅はかな考えに基づいたものであることがわかります。特定の遺伝子が増えたとか、減ったとかの事実は確かにありますが、それを「優れた、劣った遺伝子だから」と単純に考える事が浅はかなのです。そして、未来にも特定の遺伝子が「優れているから増える、劣っているから減る」と断じる事も明らかな誤りです。最近の人類遺伝学、あるいはゲノム学の進歩がそれを示しています。人間の遺伝子は太古の昔から、驚くほどの「多様性」に富んでおり、それは「優れた遺伝子だけが生き残る」という優生学の考えの誤りを示すものです。

以上述べた「優生学」的な考え方は、これからもたびたび出てくる考え方で、人類遺伝学やその歴史を知らないと、何となく新鮮で正しい考えだと捉える人が出る可能性があります。それが古めかしい考え方であり、誤りや無知に基づくものであることを医師や研究者やマスコミや社会がもっと知る必要があるのです。

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